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ハワード・フィリップ・ラヴクラフト

ハワード・フィリップ・ラヴクラフト

 

 

アメリカ合衆国の小説家。怪奇小説・幻想小説の先駆者の一人。生前は無名だったが、死後に広く知られるようになり、一連の小説が「クトゥルフ神話」として体系化された。ラヴクラフトの創造した怪神、異次元の神、神話体系は世に広まり、現代のコリン・ウィルソンたちや「SF宇宙冒険物」に大きな影響を与えている。

人物紹介
ハワード・フィリップ・ラヴクラフト
  • 生年月日:1890年8月20日
  • 年齢:46歳没(1937年3月15日)
  • 出身:アメリカ ロードアイランド州 プロヴィデンス
  • 両親:父ウィンフィールド・スコットと母サラ・スーザンを両親に持ち本人は一人っ子の長男である
  • 家族について:7歳年上の妻ソニア・ハフト・グリーンと連れ子の娘と家族になっている
  • 活動内容:小説家、詩人

引用元:https://www.youtube.com/watch?v=kV1SOyAye4I

略歴と作風

 

略歴


ロードアイランド州出身で早くから創作活動を始めていたが、病弱で大学進学を断念。生前は『ウィアード・テイルズ』などのパルプ雑誌に寄稿していたが、一般の読書界からはほとんど受け入れられず、自費出版した単行本が1冊あるだけだった。

広範に知られるようになったのは、第二次世界大戦中に5つの長編がペーパーバック化され、また『アウトサイダー英語版』(The Outsider、没後1939年刊)が『H・ P・ラヴクラフト傑作集』(The Major Works of H. P. Lovecraft)と改題されて1945年にワールド・パブリッシング社から出版された以来である。以後、オーガスト・ダーレスが創設したアーカム・ハウス社から、詩・随筆・創作ノートさらに共作なども含む事実上の全集が刊行されて、1960年代にはアンダーグラウンド文学の「教祖的存在」と見なされるに至った。

作風


悪と暗黒の諸力が出現して世界を支配するという「クトゥルフ神話」(Cthulhuの発音には諸説あり)を展開したラヴクラフトは、「全地球的な脅威」という主題に取りつかれている。また、『ネクロノミコン』と呼ばれる伝説的なオカルト(隠秘学)文献が「実在」するかのように示唆しつつ、秘法伝授者の役割を演ずる書き方には、神智学超常現象の研究を文学的幻想に変える資質がある。

ディーター・ペニングによれば、20世紀ファンタジー文学者の具体例はラヴクラフト、マイリンククービンカフカウェルズオーウェルボルヘスレムグリーンヘレンズオーウェンである。一方でラヴクラフトのような作家達は、その伝統的な語り口と固定的なモチーフのために、本来は19世紀ファンタジー文学の代表である。

近代科学では捉えきれない人間の無意識への接近を図るラヴクラフトやポーのような人々は、「意識の流れ」や人々の抱く幻想・妄想を捉えようとし、幻想小説怪奇小説探偵小説の原型をも形作った。もっと穏健な文学者たちも、近代には『指輪物語』(J・R・R・トールキン)や童話を創作していた。作品が受け入れられやすくなるように、文学者たちは古い民間伝承妖精物語を基盤にしていた。

ラヴクラフトの考えでは、基本的に恐怖小説の類は、彼のように「森林生まれの雪国育ち」で「神秘的な北方の血が強い」資質を持つ人間に向いている。このような「ゴシック」と北方森林の神秘性とを関連づける考え方は現代にもあり、例えばゴシック建築史家ジョン・ハーヴェイいわく、ゴシック建築の大聖堂は「長年にわたって樹々の成長や強さや美しさのなかに生きてきて,森の中において形成された精神の外的表現である」。同じくゴシック建築史家であるT.ジャクソンも、ゴシック様式を本質的に北方起源であると見なして、「ゴシック建築の情感は,ラテン民族の明るい積極的な気質とはあい容れない。それは陰欝さと神秘性に北方人のロマン的な気質を映している」と述べている。文学と建築という分野の違いはあるが、ゴシック的風土に育まれた共通の「気質」や「感性」が語られている。その点で、ゴシック小説の系譜に連なるラヴクラフトの考え方は、T.ジャクソンの主張と類似している。

また、ラヴクラフトはゴシック作品の先駆『オトラント城』にも言及したことがあった。彼いわく『オトラント城』は、「まったく説得力に乏しく凡庸きわまりないものではあるが、怪奇文学には殆ど比類のないほど大きな影響を与えることに」なった。金井は、「ラヴクラフトがゴシック小説の伝統をもっとも濃厚に受け継いでいることは確かである」と結論している。

生い立ちと家族について

簡易年表

  • 1890年8月20日、誕生。父はウィンフィールド・スコット。母はプロヴィデンスの旧家出身のサラ・スーザン(旧姓フィリップス)。
  • グリム童話ジュール・ヴェルヌアラビアン・ナイトギリシア神話を愛読し、夜ごと悪夢に悩まされる子供であった。
  • 1898年7月19日、父が病死。このころエドガー・アラン・ポオの作品と出会う。
  • 1906年、『サイエンティフィック・アメリカン』誌などに天文学関係の投書やコラムを寄稿するようになる。
  • 1908年、神経症のためハイスクールを退学。
  • 1915年、文章添削の仕事を始める。
  • 1916年、文通グループ『Kleocomolo』を結成。
  • 1917年、徴兵検査で不合格となる。これは彼に生涯付きまとう劣等感の一因になった。
  • 1918年、『Kleocomolo』を解散し、新たな文通グループ「Gallomo」を結成。
  • 1919年、母が神経障害で入院。
  • 1921年5月22日、母、死去。
  • 1923年、創刊されたばかりの怪奇小説専門のパルプ雑誌『ウィアード・テイルズ』10月号に短編「ダゴン」が採用される。
  • 1924年3月3日、文通で知り合った実業家ソニア・ハフト・グリーンと結婚し、ニューヨークブルックリン区に移住。しかし翌年別居。
  • 1929年、ソニアと離婚し、プロヴィデンスに帰還。
  • 1937年3月15日、腸癌のため死去。46歳没。

詳細として

前歴

1890年8月20日ロードアイランド州プロヴィデンスにウィンフィールド・スコット・ラヴクラフト(Winfield Scott Lovecraft(1853-1898))とスージィ(Sarah Susan(Susie)Phillips Lovecraft(1857-1921))の間に一人っ子として生まれる。ラヴクラフトの妻だったソニア・グリーンによると、父ウィンフィールドの仕事はゴーハム・マニュファクチュアリング・カンパニー英語版という銀器メーカーの巡回セールスマンとなっている。母スージィは、地元の名士として知られた商才豊かなフィップル・フィリップス(Whipple Van Buren Phillips)の娘であった。

父ウィンフィールドは1893年4月、ラヴクラフトが3歳の頃に神経症を患い、シカゴのホテルで発作を起こし、バトラー病院に運び込まれた。この5年後に精神病院で衰弱死している。

父が入院してから、母方の叔母リリアン(Lillian)とアニー(Annie)、祖母ロビー(Robie)、そして祖父フィップルの住むヴィクトリア朝様式の古い屋敷に引き取られた。経済的に恵まれた環境の下、早熟で本好きな少年は、ゴシック・ロマンスを好んでいた祖父の影響を受け、物語や古い書物に触れて過ごした。読み書きを覚え、3歳にして仕事で離れた場所にいる祖父と文通を行っている。ラヴクラフトによれば、母、スージィはラヴクラフトを溺愛し、非常に献身的であったという。1896年、祖母ロビーが亡くなると5歳のラヴクラフトは、母親や叔母たちの喪服の黒いドレスや葬儀の様子に酷く衝撃を受けたと語っている。

この時期に触れたイギリスの詩人サミュエル・テイラー・コールリッジの詩「老水夫行(The Rime of the Ancient Mariner)」、ギュスターヴ・ドレの絵画、『千夜一夜物語』、 トマス・ブルフィンチの『伝説の時代(The Age of Fable)』、オウィディウスの『変身物語』が作品に反映されたと考えられる。

6歳頃には、自分でも物語を書くようになった。それらは、ギリシア神話のリファインであった。同時にキリスト教以外の神々に興味を抱くようになった。「夜妖」に拉致されるという悪夢に悩まされるなど、父と同じ精神失調を抱えて育つ。この悪夢については、8歳で科学に関心を持つと同時に宗教心を捨てると見なくなったという。ラヴクラフトは、科学の中でも化学、天文学に強い関心を示した。しかし科学においても人間の生殖に関する記述を目にしたときは「virtually killed my interest in the subject.(私の興味を殺した。)」と語っている。

長じて学問の道を志し、名門校であるブラウン大学を志望して勉学に励んだ。並行して16歳の時には、新聞に記事を投稿するようになり、主に天文学の記事を書いていた。ロード・アイランド・ジャーナルには、69枚の記事が残っている。その一方で、神経症は悪化を続け、通っていた学校も長期欠席を繰り返し、成績は振るわなかった。

1900年代までに祖父の事業も振るわなくなり経済的なゆとりも失われて行った。使用人たちが家を去り、家族だけが残された。その祖父も死ぬと、ラヴクラフトは精神的にも経済的にも追い詰められ、結局、ハイ・スクールも卒業せずに中退している。それでも独学で大学を目指したが挫折し、18歳の時には、趣味であった小説執筆をやめて半ば隠者の様に世間を避けて暮らすようになった。こうした神経症がよくなってきたのは30歳頃であるが、挫折多き青年期は、ラヴクラフトにとって「人生で最も暗い時期の一つ」であった。

この時期、初期の作品として小説『洞窟の獣英語版』、『錬金術師(The Alchemist)』が執筆された。1912年に現地の新聞に最初の詩『西暦2000年のプロヴィデンス(Providence in 2000 A.D.)』を発表している。同年の詩『ニガーの創造(On the Creation of Niggers)』は、ラヴクラフトの人種差別的な思想が現れている。

前期の文芸活動

1914年4月、アマチュア文芸家の交流組織に参加したことをきっかけに、ラヴクラフトは小説との関わりを取り戻した。その3年後には、小説の執筆を再開して同人誌に作品を載せるようになった。1915年には、文章添削の仕事を始めていた。ラヴクラフト本人は生涯、文章添削のほうを本職と思っており、創作は余暇の仕事と考えていた。1922年には、作品が雑誌に採用されるようになっていったが、自己の創作能力に自信が持てず、また「書く必要が来たら書く」というスタンスで自らアマチュアであることに甘んじていたため、あまり積極的に創作はしなかった。また、不採用になると非常に落ち込む性格であったため、『チャールズ・ウォードの奇怪な事件』のように、今日では傑作とされている作品の中にも、自信の欠如のため編集者に送ることすらしなかったものがある。

文章添削の仕事は、当初は無料奉仕、のちも非常に低い報酬でこの仕事を請け負っていた。ラヴクラフトの添削ぶりは、新しいアイデアを提案したり、原文がほとんど残らぬほど書き換えたりと、ほとんどゴーストライターに近いものであった。しかし、この文通は、後進指導の役割も果たし、前述のダーレスを始め、彼を慕う作家が多い理由となっている。ヘイゼル・ヒールドゼリア・ビショップ)など、ラヴクラフトの添削によってクトゥルフ神話作品を執筆することになった作家も多い。またダーレスの他、ロバート・ブロッククラーク・アシュトン・スミスロバート・E・ハワードらとは膨大な量の書簡を交換している。他にも文通をしていた者は多く、また手紙一通の量も相当のもので創作や文章添削よりも生涯、文通に多くの時間を費やしていた。

1916年、ラヴクラフトは、初期の短編小説「錬金術師」を発表した。同時期に書いた『墓』は、ラヴクラフトが最も影響を受けたエドガー・アラン・ポーの構成スタイルに似通っているとされる。しかし後のクトゥルフ神話に造形の近い『ダゴン(Dagon 、1919年11月)』が初期の作品として注目されることが多い。

1917年、ラヴクラフトは、兵役検査に不合格となった。翌年から母スージィも神経衰弱のような症状で苦しみ出した。1919年3月には、スージィも夫ウィンフィールドと同じくバトラー精神病院に入院したが、その病状に関しては公表されていない。ラヴクラフトにはある種のオイディプスコンプレックスもあったと言われている。ラヴクラフトは、出来る限り母親を訪ね、手紙のやり取りを重ねた。1921年5月24日に母スージィ(サラ・スーザン・フィリップス・ラヴクラフト)は、胆嚢手術の合併症によりバトラー病院で死去した。ラヴクラフトは、強いショックを受ける。

また1919年以降のこの時期、孤独となったラヴクラフトは、ダンセイニの影響を受けた作品を発表している。

結婚

1921年7月にアマチュア作家の集会でソニア・グリーンと出会い、2人は1924年3月3日に結婚した。ソニアはプロヴィデンスから離れることを望み、2人は、ニューヨークブルックリン、793フラットブッシュアベニューのアパートに移住した。彼より10歳年上ですでに子どももいた労働夫人のソニアは、終始、引きこもり的性格の夫に対して、結婚生活の主導権を握り続けた。

この時期から友人たちの薦めによって、パルプ怪奇小説雑誌『ウィアード・テイルズ』に作品を送るようになった。1924年に『ウィアード・テイルズ』の編集長がエドウィン・ベアード英語版からファーンズワース・ライトに代わるとラヴクラフトの作品は、無駄に長すぎるなど商業価値の低いものと見なされ、しばしば拒否されるようになった。ラヴクラフトもライトを商業主義者として、不採用になったときは、敵対的な愚痴を友人たちへの手紙にこぼすのが常であったが、両者にとって皮肉なことにライトが編集長を担当した時期は、ラヴクラフトの存在もあって『ウィアード・テイルズ』にとって黄金時代であったとも言われている。

1925年頃にソニアが失業し、生活が不安定になるとラヴクラフトも安定した収入を目指して働こうと決意する。しかし30歳半ばまで職業経験のなかったラヴクラフトは、どの仕事も長続きすることがなかった。ソニアは就職のためクリーブランドシンシナティに移住することにしたが、ラヴクラフトは同行せず、ブルックリンハイツに移り住んで、ソニアからの仕送りで生活をしていた。苦しい生活に衰弱して痩せてしまう。この頃から、ラヴクラフトは、「ニューヨークに来たことは失敗だった」と感じるようになった。

この時期に『レッド・フックの恐怖(The Horror at Red Hook 、1927年1月)』、『彼(He 、1926年9月)』が執筆された。また「クトゥルフの呼び声(The Call of Cthulhu)」の概要が書かれ始めたと言われている。

後期の文芸活動 – 最後の10年

1926年にプロヴィデンスに戻ったラヴクラフトは、1933年までバーンズ通り10番地のビクトリア様式の木造建築に住んだ。ここからの10年間で、いわゆるクトゥルフ神話を軸としたラヴクラフトの代表作が生まれてくることになるが、平均したペースはほぼ1年に1作程度の寡作ぶりである。あいかわらず、他の作家の作品を改訂し、ゴーストライティングを行うことを収入の中心としていた。顧客の1人となっていた奇術師ハリー・フーディーニはラヴクラフトの才能を惜しみ、彼の生活を支援しようと通信社の仕事を斡旋し、それが失敗しても迷信に対する考察やその否定について記述した『迷信の癌 (The Cancer of Superstition)』の代筆を依頼した。しかし、この依頼はフーディーニの死後、フーディーニの夫人が継続を望まなかったために中止となった

長く別居生活にあった妻ソニアは、新たな仕事が軌道に乗ったため、今度はプロヴィデンスでラヴクラフトとの同居生活に戻ろうと考えたが、ラヴクラフトの叔母たちとの交渉は合意に達することができず、正式に離婚が成立した。その後、彼女は、1933年にカルフォルニアに移住し、1936年に再婚している。

『ウィアード・テイルズ』の読者の間では人気があったが、寡作にして、また雑誌の稿料も文章添削の収入も低かったため、生活は常に貧しいものだった。しかし、晩年に貧困のお陰で古い家に住むという願いがかなったと書簡に書いているように、貧困には鈍感なところがあった。また稿料のアップなどもほとんど要求することがなかった。これは膨大な書簡から察するに、高貴な身分の者は労働するものではないという彼の貴族趣味からきていると考える研究家もいる。経済的に余裕があり健康だった時には、古い時代の細かい事情を調査するため、ケベックニューオーリンズまで長距離バスを利用して旅行したこともあった

ライトは、『ダニッチの怪』のような作品を望んだが、ラブクラフトの作品は晩年になるほど、「長すぎ」、「文が難解」ということも含めて、ますますライトの気に入らないものとなっていった。ラヴクラフトはライトに拒否された作品を、『ウィアード・テイルズ』以外の雑誌に作品を送るということをほとんどしなかったので、友人たちが仲介に立ってラヴクラフトの作品を他の雑誌に売り込むということもよくあった。

ラヴクラフトは、1935年、45歳を過ぎてギリシア語をマスターする。1936年にロバート・ハワードが自殺したことに衝撃を受ける。そして、同年に自身も小腸癌との診断を受ける。その後、癌の影響による栄養失調も重なり、翌1937年に死去した。ラヴクラフトは、生涯に渡った科学に対する興味から死に至るまで可能な限り日記を残した。生前に出版された単行本は、1936年にウィリアム・L・クロフォードが出版した中編『インスマウスの影』の1作だけで、それもわずかな部数であった。

 

死後

ラヴクラフトは、両親と同じ墓所に葬られた。彼の没後1939年、手紙友達で同業作家であるオーガスト・ダーレス、ドナルド・ウォンドレイが発起人となり、彼の作品を出版するという目的でアーカム・ハウス出版社が設立された。

ラヴクラフトの墓碑

ラヴクラフトが没した際、生地プロヴィデンススワンポイント墓地にあるフィリップス一族の墓碑にラヴクラフトの名前が記載されたものの、彼自身の墓碑は作られなかったため、1977年にこれを不満とするファンが資金を集めてラヴクラフトの墓石を購入した。墓碑には生没年月日と彼の書簡から引用した一文「われはプロヴィデンスなり(I am Providence、神意(Providence)と終生愛した故郷プロヴィデンスをかけた洒落)」が刻印されている。また、しばしばラヴクラフトの墓を訪れたファンが『クトゥルフの呼び声』(初出は『無名都市』)から引用された以下の四行連句を墓碑に書き込んでいく。

 

人物と創作の背景

海産物を特に嫌っており、このことは彼の作品に登場する邪神たちの造形に強く影響を及ぼしている。芸術作品については、彼の作品に見られるものと同じく、古いものを愛した。絵画に関しては風景画を好み、建築に関しては機能的な現代様式を嫌い、ゴシック建築を好んだ。あらゆる種類のゲームやスポーツに関心がなく、古い家を眺めたり、夏の日に古風で風景画のように美しい土地を歩き回ることを好んだ。

人種偏見もまた強かったとされる。彼の生きた時代は欧米白人文明の優越がまだ根強かったが、彼の人種偏見は「常軌を逸している」という研究者もいる。ニューヨークを嫌ったのもそこが人種の坩堝の様相を呈したためであるといわれており、このような異人種嫌悪が、彼の作品に影響を与えたこともまた否定しがたい。

性格的には、気まぐれで矛盾した性向を持っており、残された膨大な書簡中には相反する主張が見出されている。その時々で言うことが変わり、時にはヒトラーの人種差別政策やユダヤ人弾圧を批判したり、アングロサクソン文明よりも中華文明がより優れていると述べたり、また、ネグロイドオーストラロイドだけは生物学的に劣っているとして、この二種に対してだけは明確な線引きが必要だと主張したりもしている。政治的には保守を自認していたが、晩年には社会主義思想に一定の影響を受けた。

科学への興味と造詣が深く、ホラーや幻想的作品を書いたが迷信や神話の類を一切信じず無神論者を自認していた。エドガー・アラン・ポーダンセイニ卿ウォルター・デ・ラ・メアバルザックフローベールモーパッサンゾラプルーストといった作家を気に入っており、小説におけるリアリズムを好んでいた。一方でヴィクトリア時代の文学は嫌っていた。

初期の作品はアイルランド出身の幻想作家ダンセイニ卿やポーの作品に大きく影響を受けているが、後期は、宇宙的恐怖を主体としたより暗い階調の作品になっていく。ブラヴァツキー夫人が著した『シークレット・ドクトリン』をはじめ神智学の影響も見受けられる。19世紀末から20世紀初頭にかけ世界的にスピリチュアリズムが流行しており、ラヴクラフトもその潮流の中で創作活動を行った。作品は彼自身の見た悪夢に直接の影響を受けており、潜在意識にある恐怖を描き出したことが、21世紀の今に至るまで多くの人を惹きつけている。

ラヴクラフトは、その作品に一般的にはあまり使われない難解な単語(または稀語)を多く使用する傾向があった。彼が創造した架空の名と、ラヴクラフト流の「ゴシック・ロマンス」をまとった文体は独特の個性となっていた。しかし、それらは逆に当時のアメリカ大衆から受け入れられにくいものにもなり、ラヴクラフト自身は公私共に「アウトサイダー」であった(アウトサイダーはラヴクラフト自身が好んだ言葉でもある)

日本において

いち早く江戸川乱歩が注目しており、探偵小説雑誌『宝石』に1949年に連載していたコラムにて、ラヴクラフトを紹介している。また西尾正は探偵小説雑誌『真珠』1947年11・12月合併号に『墓場』という短編を発表しているが、この作品はラヴクラフトの『ランドルフ・カーターの陳述』を翻案したものであった。ラヴクラフト作品の最初の翻訳は、『文藝』1955年7月号に掲載された『壁の中の鼠群』(加島祥造訳)である。水木しげるも影響を受けており、1956年にラヴクラフトの『ダニッチの怪』の翻案漫画『地底の足音』を発表している。1980年代になると、ファンであった菊地秀行や、編集者として紹介を後押しした朝松健などが、作家になって影響を受けた作品を発表し始める。

国書刊行会創元推理文庫の2レーベルから全集が発刊され、幾つもの作品が複数翻訳されている。

 

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